taro-h’s diary

たろログ

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オワコンという言葉があまり好きではない。なぜなら、まだそのコミュニティにいる人たちへの配慮が欠けているから。という話。

以前、オワコンって面白いよという話 - taro-h’s diaryという記事を書いた。

taro-h.hatenablog.com

今日はここから更に進めて、あまり僕がオワコンという言葉が好きではないこと、そして、そう思う理由について述べようと思う。

なぜ「オワコン」という言葉が好きではないのか。それはタイトルの通り、まだそのコミュニティにいる人たちへの配慮に欠けているから である。

オワコンとは

wikipedia の説明を引用すると、

オワコン(おわコン、終わコン、終わったコンテンツとも)とは、主に一般ユーザー又は、個人ユーザーに飽きられてしまい、一時は栄えていたが現在では見捨てられてしまったこと[1]、ブームが去って流行遅れになったこと、および時代に合わなくなった漫画・アニメや商品・サービス[2][3][4]を意味するインターネットスラングである。

とある。

読売新聞のコラムのアーカイブ から引用すると、こんな感じ。

 一世を風靡(ふうび)したけれどもブームが過ぎ去り、絶頂期ほどの人気がなくなったものを「終わった」と言うことがありますが、終わコンの「終わった」もそれと同じ意味です。一般的に人気がなくなってしまった、世間はともかく自分が興味を失ってしまったコンテンツのことをさして終わコンと言います。コンテンツとは違いますが、人気アイドルやネットのサービスなども終わコンの対象になることもありますワン。

実際のところ、ブームが去ったからといっても、すぐに人々が興味を失うわけでなく、それなりの数のファンは残るものなのですが、以前よりは勢いがなくなっている状態だと終わコンと言われてしまうようです。誰でもそうですが、好きなものを終わコンと言われると、かなりムカッとくるものです。使い方には注意が必要ですワン。

元々はアニメコンテンツが発祥とのことだけど、今はネットサービスやゲーム、特にソーシャルの要素を持つSNSや、ソシャゲに対して使われることが多いような気がしている。

まだそこにいる人たち

自分は割とレイトマジョリティーなところがあるので、ネットサービスがリリースされて、盛り上がって、やや盛り上がりにかけた頃に参入することが多い。
2013年に開始した艦これは2015年に始めたし、 ニコニコ動画にハマったのは2016年頃だった。
ボカロを本格的に聴き始めたのは初音ミクが10周年を迎えた2017年前後だし、2017年1月頃に盛り上がったマストドンに参入したのは2018年半ばだった。最近だと2017年8月に発売されたSplatoon2を2020年になって一生懸命やっている。

僕が入ったこれらのコンテンツはどこかで「オワコン」と称されることはあったものの、そこにはそのコンテンツに紐付いたコミュニティがあって、そこにはそれを楽しんでいるたくさんの人がいた。

艦これはオワコンと評されることが多かったけれど、おーぷん2ch掲示板では常にたくさんの書き込みがあって、定型文やノリが存在し、そこには独特の文化があった。
ニコニコ動画もオワコンと称されて久しいけれど、そこには僕にとって面白い動画を投稿する人がいたし、僕の投稿した動画にも少ないながらコメントがついた。動画を媒体としたコミュニケーションがそこにはたしかに存在した。

自分は艦これは引退したし、ニコニコ動画を見る頻度はめっきり減った。でも、それでコンテンツを「オワコン」と評する気には全くなれない。
今でも艦これスレではあのくだらないやりとりや配信が続いているだろうし、ニコニコ動画が好きで、継続してそこに動画を投稿している人がいるのを知っている。
かつて一緒に遊んでくれたそんな人たちがまだそのコンテンツに残っているにも関わらず、そのコンテンツを「オワコン」という言葉で評することができるだろうか?

「オワコン」ではなく、あくまで「自分には合わなくなったコンテンツ」

自分が飽きたり、つまらなく感じたコンテンツは「自分には合わなくなったコンテンツ」であって、それ以上でも以下でもない。
「自分に合わなくなったコンテンツ」を「終わったコンテンツ」と称するのは、主語が大きくて傲慢ではないだろうか?と僕は思う。 自分のモノサシはあくまで自分のモノサシであって、普遍に当てはまるものではない。

流行りものが必ずしも自分にとって素晴らしいものとは限らない。

「オワコン」という言葉を使う裏側には、「流行りものは面白いもので、流行っていないものは面白くないもの」という認識があるように思う。
全くそんなことはなくて、流行っている/いないに関わらず、自分にとって面白いものは面白いし、自分にとって合わないものは合わない。

誰かに何かを勧められたときに「でもオワコンだからなぁ」と渋る人をみかける。別にそこをどう判断するかは個人の自由だけど、僕はそれをみて少し勿体ないなと感じる。
たくさんの人が飽きたり合わないと感じたからといって、自分にも合わないとは限らない。
また単純に盛りがすぎて勢いが落ちているからといって、自分が楽しめないと決まったわけではない。

流行りものが必ずしも自分にとって素晴らしいものとは限らないし、反対に、流行っていないものが自分にとってつまらないものとも限らない。

これはやや邪推がすぎるんだけど、「流行りのコンテンツにいる自分」というアイデンティティを確立するために、流行りのコンテンツを消費している人はいないだろうか?
または「流行りのコミュニティにいる自分」というアイデンティティを確立するために、流行りのコミュニティに所属している人はいないだろうか?

「流行っているコンテンツ」と「流行っていないコンテンツ」の間に貴賎はない。様々な違いはあっても、格上・格下の関係が成立したりはしない。
「流行っているコミュニティ」と、「流行りの過ぎたコミュニティ」についても同様だ。
そこが自分にとって居心地のいいところであれば、そこは自分にあったコミュニティだし、自分に合わなかった + 勢いが落ちたからといってそのコミュニティを「オワコン」と称するのはそこにいる人たちに失礼だし、前述したとおり傲慢だと思う。

結びに

この記事を書いていて、「オワコン」という言葉があまり好きではないもうひとつの理由に気がついた。
「流行りに流されず、自分の好きなものを好きでいるのが大切なことだと思っている」からだ。
流行りに流されるのではなく、自分にとって最適な選択肢を選ぼう。
ただの僕の理念だけど、これをこの記事の結びのメッセージとしたい。