taro-h’s diary

たろログ

ブログです。近況報告とか振り返りとかとか

共感は正しさの担保にはなるが、結果は担保してくれないという話

リアル、オンライン問わず、多くの人に共感をしてもらったり、理解を示してもらえたことについては、「それがやはり正しかったんだ」という気持ちになる。
肯定されたその価値観や判断基準に基づいて引き続き進んでいけば、望ましい結果にたどり着けるように思いがちだ。

でも、ここに落とし穴があるなと気付いた。
当然だが周りのみんなが同意したからと言って、その価値観・判断基準に従って選択をしていった結果が、目的に照らして望ましいものになるとは限らない。
端的に言えば、失敗するかもしれないということだ。

共感してもらうとやはり気持ちいいし、それ自体がモチベーションになる。僕の創作のモチベーションはそこにあって、それは大事にしたいなと思っている。
ただやはり、「共感してもらえた」という結果は、正しさを担保しない。なかなか厄介な感情というか、構造だなと思う。

判断において、他人に相談したりとか、自分の意見を話して情報交換・議論することは大事で、そのフィードバックは貴重なものではあるけれど、
「誰にも理解はされないが、この判断は正しい」と自分を信じて突き進むべきフェーズも必要なんだろうと思う。
他人に理解される、共感してもらえるという経験から自分の判断基準を、価値観を醸成してしまうと、それによってどこかで致命的な判断ミスを犯しそうな気がして、この記事を書いている。

何でもかんでも疑って、自分で判断しないといけないということだ。
ただ、そんなことをやり始めるといよいよ何も判断できなくなってくるなとも思った。
上の立場に立った人や、組織をまとめる立場に立った人は、ある程度の判断を自分で下さず、他人に任せたりすることが必要になる。
あと、現実問題時間は有限だから、いちいち些細な判断において時間をかけているとそれだけで1日が終わってしまうだろう。
重要度やインパクトに応じて、どこまで考えて自分で判断するかを決めるのがいいんだろうという気がする。

そこまで重要度やインパクトのない、でも下す必要のある判断については、ある程度納得できない感が残っていても決断してしまうか。
もしくは、ある程度の失敗を見込んだうえで納得して、決定を下す。

そんな感じが望ましいのかな。*1

*1:自分は、「望ましい結果にたどり着くような判断をできているか(間違っていないか)よりも、納得できる判断をしているかに重点をおいている気がする。そういう意味では、将来の自分になじられても言い返せるような意思決定をするというのがより適切かもしれない